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太宰春台〔江戸時代〕は世界で最初に重商主義経済を称揚した

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 歴史学講座『創世』再成塾:歴史研究家「小嶋 秋彦」:2014/11/27

 課題:太宰春台〔江戸時代〕は世界で最初に重商主義経済を称揚した
    ―「経済録」「経済録拾遺の理論」―

 1.太宰春台はアダム・スミスより半世紀早く経済理論を展開した

   ―春台の「経済録」とスミスの「国富論」―

 2.春台は日本の自由主義的資本主義発展の基礎的理論を展開した

 3.春台の生涯と時代―出生から荻生徂徠の門下時代

 4.重農主義的経済思想から重商主義思想への進展

   ―「経済録」から「経済録拾遺」―

 5.春台の経済理論の先進性―西欧の近代経済理論との比較―

 6.春台の国際貿易についての思想

 7.春台学の時代的背景―江戸時代の商業の繁栄と商人―

 8.日本的資本主義の性格は春台の理論に始まる

 9.「書経」に依拠したその理論〔書経は倭人〔和人〕の古典〕


  当講座は平成24年の開講以来日本人の文化あるいは

 文明の根幹が何かを説明開示してきました。

  魏書倭人章が記す「会同(集会)」「惣郷・惣村」

 そして倭寇の制度また豊臣秀吉の刀狩り、

 徳川家康の江戸幕府の法治国家体制と

 日本の先人たちの足跡には世界の他の社会には

 比類なき優秀な評価がされるべき事跡が積み上げられています。

  さらに江戸時代の経済思想を丁寧に研究しなければなりません。

  この期の思想家たちが想出した方針は明治維新後にも影響し、

 日本社会に無言の圧力をかけたのです。

  特に日本の対外的、対アジア諸国対応において、

 西欧とは全く違った様相が呈されたのです。

  その性格傾向を的確に認知するのが、

 21世紀に入った現在における日本人研究家の役割です。

  そのために江戸期の経済思想を研究し、

 その価値を復興させなければならないのです。

  先ず、西欧に先駆けて、経済の重商主義的展開の重要性を

 見抜き称揚した太宰春台を第一としなければんりません。

  日本の経済学は彼から始まったのです。

  決して明治時代になってからではありません。
 
  ぞの先進性について外国の研究者も時として評価しています。

第2658回:『記・紀』盲信はなぜ?極悪の文化財破壊なのか

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 『浦和レッズレディース』http://www.urawa-reds.co.jp/ladies/
 『Yahoo!天気・災害』http://weather.yahoo.co.jp/weather/ 
 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:6頁

 ≪『記・紀』盲信はなぜ?極悪の文化財破壊なのか≫

 だが、この問題を、

 「なるほど、そう言われてみれば、そうだな。

  しかしその程度のことは少し考えればわかる問題にすぎない」などと

 思って済ませてしまってはいけない。

 なぜか?。

 蓋鹵(コウロ)王=倭王・興は滅んだが、

 その弟・武が高句麗に立ち向かって逃げ込んだ奈良県の高市を

 本拠に現大阪府の奪回を計った。

 そのときの中国・宋への手紙が

 『宋書』に残った彼の上表だったことは、

 すでに完全に史実として私たちの知識の中にある。

 そこには

 「句驪(クリ)(高句麗)無道」にして

 「天路を壅塞(ようそく)(宋への道をふさぐ)」と書いて、

 高句麗・長寿王が九州から中国を占拠していた

 史実まで明瞭に述べている。

 それなのに『記・紀』はこれらの「史実」を、

 全然、一字も書いていない。

 このことと、前記の歴史のお伽話化とから、

 私たち日本人にとって非常に重要な「結論」が出る。

 以上の事実からだけでも、

 『記・紀』がどの程度の欠陥『史書』か、

 明瞭に結論できるのである。

 在来国学者のように、粗雑な思いつき解釈だけで、

 『記・紀』そのものを盲信することは、

 良くも悪くも奮闘努力した先祖たちの事跡を、

 ありもしない幻影と取り換えて抹殺、

 私たちの建国史を汚(けが)し、

 放棄してしまうことなのである。

 この行為は出土品を私物化したり、

 粉砕したりする程度の文化財破壊とは、

 比較にならないほど極悪の文化財破壊なのだ。

第2659回:セットになった「サカ~サタ」は何語か?

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:7頁

 ≪セットになった「サカ~サタ」は何語か?≫

 こうして史実の時代が確定でき、

 事件の内容が完全に把握できると、

 『紀・紀』が書いている仁徳天皇系皇朝の歴史や、

 『三国史記』の疑わしい記事も、

 批判しながら取捨選択できるようになる。

 その意味で「サカ~サタ」は実に適当な教材を提供する

 偉大な文化財だったことがよくおわかり載けたと思う。

 だがこの講義は学説発表の場ではない。

 着眼点と疑問の解決システムをお教えする講座である。

 あとはご自分で原典から史実をご発掘い戴きたい。

 ではサカ~サタは何語だったのであろう?。

 塞の字は閉塞(へいそく)、城塞(じょうさい)と、

 漢音ではソクとサイと発音するが、

 優婆塞(ウバサカ)でわかるように「サカ」とも読む。

 『日本書紀』では塞の字を使った塞(さい)の神が、

 伊弊諾(イサナキ)尊が黄泉から逃げる場面に出てくるが、

 この神名は猿田彦の別名である。

 しかしサカには釋迦を指す使い方もある。

 卑弥呼が死んだ時、

 伊都国に滞在していた張政の「塞曹掾史」という肩書きも、

 当時、中国に対する強い外圧の一つだった

 「塞(サカ)族=釋迦(シャカ)族=スキュタイ人」を

 相手にする外交官を意味しているから佐賀は釋迦(シャカ)である。

 だがこれだけしか念頭にないと、

 サカはスキュタイ人の居住地だということになり、

 それと向かい合う地点のサタの意味がわからなくなる。

 サカ~サタはセットになっていることで重要なのだから、

 その理由が理解できる語源を、伊都国の佐賀とは別に、

 みつけることが必要なのである。

第2660回:サカの語源はギリシャ語のサコス

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:8頁

 ≪サカの語源はギリシャ語のサコス≫

 日本語のサカは、ウパサカでわかるように、

 パーリ語の特徴をもっている。

 また佐賀市が伊都国の跡にあり、

 卑弥呼当時、仏教中心地で首都だった事実から

 サカ=釋迦、イ=王、ト=都で、

 釋迦王都(サカイト)の名残とみると、

 サカイの意味もわかり最も合理的である。

 塞は小さな砦のことで、

 大きな城や小さな砦を総括した城塞ではないから、

 伊都国の跡の佐賀は「塞=サカ」ではない。

 ではそれは大分の佐賀の閑でも同じなのだろうか?。

 ここは同じ「佐賀」の文字が使ってあるが、

 意味は異なっている。

 それは「盾の類・防衛する・楯形地形・関所」

 などを意味するギリシャ語の

 「サコス σακοζ sakos」に一致する。

 佐賀の関は小さな半島で、

 しかも四国へ渡海する最短距離に、

 対岸の佐田岬半島がある。

 交通の要所であると同時に防衛の要所でもある。

 とすればそこに関所が置かれるのは必然で、

 今なお佐賀の「関」という名を保存して、

 ギリシャ語のサコスに完全に合うのである。

 我が国で「塞」をサクと読み、柵を塞の意味で使うのは、

 このギリシャ語が変化したものとみる以外にない。

 サコスは複数形だから単数形ならサコ、

 南九州語では遺幅が急に狭くなった道を「迫 サコ」という。

 これは沖縄では「サク」になるから、

 サクという発音をもつ柵の字が当て字として使われたことは、

 他の当て字群の実例からも疑いの余地がない。

第2661回:坂井・堺・坂名井は「釋迦王(サカイ)」の都

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:9頁

 ≪坂井・堺・坂名井は「釋迦王(サカイ)」の都≫

 これでは一つのものに二つの語源があって、どちらが正解か迷うが、

 それは多言語国家の時間差の結果で、真相は不可解なものではない。

 まず「王」を「イ」と呼ぶのはマレー語である。

 今の私たちは、

 これまでお話ししてきたことでおわかりのように、

 複数の言語が混入しているのに、

 それらの語源がどこの言葉か知らずに、

 全部日本語だと思って使っているが、

 卑弥呼当時も同じだった。

 壹国(イチマ)を伊支馬(イチマ)という人と、

 壹国(サツマ)(マレー語)=薩摩と呼ぶ人とが混じり合って住んでいて、

 便利さえよければ区別せずに使っていたのである。

 「時間差」というのは、

 佐賀にいた当時は首都人だった倭(ウワイ)人が、

 佐賀の関に移り、

 四国へ渡った時代には、

 衰えて単なる釋迦教徒に過ぎなくなっていた、

 という時代差なのである。

 そこではもう、サカイとは呼んでもらえなかったが、

 大阪府まで進出して百舌鳥耳(モズミ)原皇朝を樹立した当時は、

 昔に勝る都をもち、

 堺都(サカイト)=釋迦王都(サカイト)と呼ばれたから

 後世までサカイの地名が残ったのである。

 この見方だと、種子島の坂井も、また継体天皇の出身地「坂名井」も、

 ともに「釋迦の(ナ)王」を意味する地名だったと理解できるようになる。

 念のためパーリ語をみるとsakaは「自分の」という形容詞。

 サガはない。

 マレー語では

 sakaは「柱・血統」、

 sagaは「木の名」で、どちらも無関係である。

第2662回:サガの複合語源と偉大な文化財=鹿児島県のサカ群

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:10頁

 ≪サガの複合語源と偉大な文化財=鹿児島県のサカ群≫

 サガに近いギリシャ語に

 「サガリス σαγρισ Sagaris 

  武器の片刃(かたは)の斧(おの)・矛(ほこ)」がある。

 堺が中近世の、我が国最大の武器産地であり、

 種子島も古代から鉄器産業の先進地だったし、

 火縄銃が「種子島」という代名詞で呼ばれていた事実と、

 これもまたその最大の生産地が堺だった事実からも、

 歴史の背後に潜む坂井と堺の関係の深さが推測できるが、

 サカ・サガの語源としては、サコスにはかなわない。

 しかしいずれにしても語源はギリシャ語である。

 いま鹿児島県にあるサカは謎に答を提供してくれる。

 種子島以南では大島郡の喜界町(鬼界が島)にだけ

 坂嶺(サカミネ)がある。

 ここは江戸時代の記録でも筋骨逞(たく)ましい、

 金髪、赤髪・裸体の鬼=(ギリシャ人)が住む島である。

 「サカの初め」と読める

 坂元は大隈、薩摩両半島の中心地、

 大隈町と鹿児島市とに大地域名があり、

 釋迦会(サカエ)と読める「栄(サカエ)」は

 種子島の首都・西之表市にある、

 ここは良港なので佐多へ船出したサカイはこことみてもいいが、

 大隈半島の南北、曽於郡末吉町と垂水市と、

 薩摩半島の南北、串木野市と阿久根市にも

 「栄(サカエ)」町が配置されている。

 だが中種子町の坂井に対応するのは、出水市の「境」町である。

 種子島は百済「ホセイ」。

 出水は「イヅン=イドン」。

 この2か所にだけ、きっちりとサカイが配置されている。

 卑弥呼当時の文化財地名が、

 今なお、こんなに整然と歴史を保存しているのである。

第2663回:サタの語源をパーリ語と断定できる理由

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 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:11頁

 ≪サタの語源をパーリ語と断定できる理由≫

 次はサタだが、ギリシャ語にもマレー語にもない。

 パーリ語の sata は「百・正・善・法・念」で、

 卑弥呼の名乗りの倭迹迹日百襲姫の百(=百済)に合い、

 佐多半島が百済なら続く曽於が襲の国(蘇奴国)で、

 百襲姫の名乗りが一層詳しくわかることにもなる。

 また佐太の大神とは「正法、正念の王」ということで、

 本来は仏教指導者だったが敗北後に「神」にされたものとみると、

 前後の関係がさらに浮き彫りになるし、

 「正念場(しょうねんば)」という言葉は、

 追い詰められた状況で覚悟をきめることをいうから、

 嵯峨から出雲へ大脱走を試みた佐太の太守の心境そのものである。

 本来はそんな状況とは全く無関係な仏教用語の「正念」が、

 こんな異常な意味に使われるのは、

 百済倭国の敗走時にこの言葉が生まれて今まで伝わった、

 超大型事件の記憶以外にはありえないから、

 語源はこのパーリ語だと断定していい。

 サタの最南端は沖縄県宮古郡伊良部町の佐和田で、

 これは「サーダ」と沖縄式発音で引き伸ばされたもの。

 また沖縄本島に国頭(くにがみ)郡・国頭村・佐手がある。

 沖縄にはサカ・サガはない。

 同様の離島部には、

 鹿児島県西部沖の甑(コシキ)島の首都・里(サト)がある。

 新潟県の佐渡島(サドがしま)と

 山形県の寒河江(サガエ)市とが

 対称的な位置にあるのと、

 この里と鹿児島県の栄(サカエ)町群とが発音、

 位置関係とも共通なのは、

 見逃せない研究対象である。

第2664回:一般名詞で史実を知る法= 例「網(あみ)」

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 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:12頁

 ≪一般名詞で史実を知る法= 例「網(あみ)」≫

 出雲と切っても切れない日本語の名詞に「網(あみ)」がある。

 地名が多くの史実を記録していて、

 歴史の復元に欠かせない重要文化財であることは、

 もう充分にご確認戴いているが、

 地名以外の名詞もまた同様の働きを内蔵している。

 その例として「網」のお話しをしよう。

 網とは、現在では様々な意味に使われていて、

 ちょっと一言(ひとこと)ではつかみ難いが、

 古代には「魚を一網打尽(いちもうだじん)にする道具」だった。

 「アミ」という日本語の語源は?というと、

 海人たちの生活を支える生命(いのち)の親、

 尊い神聖な武器だったのである。

 その名は海人たちには尊敬に値いする名が選ばれているはずである。

 それは彼らが海神ポセイドンを、

 自分たちの固体名に選んで国名や地名や姓にして、

 今まで用い続けているように……。

 だから「網」はポセイドンに関係のある名だった可能性が高い。

 ポセイドンの妻、海の女神の名は

 「アムピトリテ Αμπιτριτε Amphitrite」で、

 古代の「ピ」音は沖縄語では「ビ」で「アムビ」だ。

 南九州語ではさらに「ミ」になり短縮するから

 「アムミ→アミ」になる。

 網はこの女神の名の前半が、

 ちょうどポセイドンの名の前半・ポセイを百済として使ったのと

 全く同様に使っていることになる。

 では、

 それはただ網という道具名としてだけしか残っていないのだろうか?。

 ポセイドンは地名や姓を沢山のこしているのに…?。


第2665回:倭国と共に移動し分布した女神名(アムピトリテ)の地名

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:13頁

 ≪倭国と共に移動し分布した女神名(アムピトリテ)の地名≫

 その手掛かりは女神の名の後半「トリテ」にある。

 東京都からJR常磐線で北東に20kmの利根川北岸に

 茨城県取手(トリデ)市があり、

 その北東20kmに阿見(アミ)町(稲敷郡)がある。

 取手市は今は「トリデ」と発音しているが、

 その文字は幕末まで下級警官の呼び名だった

 「取手=トリテ」と同じだし、

 網はそれを使う取り手(漁師)がいなくては役に立たない。

 阿見と取手はワンセットになった名前だから、

 間違いなく「アムピトリテ」を守護神にした一族の居住地に、

 南海から海人たちが運んだギリシャ文明の遺産なのである。

 ではそれは、いっ?生まれたのか?。

 その地域の大地名になっている

 茨城(いばらぎ)がその時間帯を物語ってくれ。

 なぜならそれと同名だとわかる「茨木(いばらぎ)」は、

 大化改新まで倭国が都(みやこ)していた

 大阪府北半部の重要地点・茨木市にあって、

 その経済環境もどちらも大河に沿った古代の水郷地帯である。

 また茨木市には今も穂積・大住・藤の里=百済(ポセイ)。

 泉、泉原=出雲(イドン)があり他にない

 不思義な地名「安威(アイ)」がある。

 これは継体天皇陵の藍野(あいの)と共に

 卑弥呼の語源である「愛(アイ)」でもあるが、

 「アムヒ」が河内弁では「アンイ」になるから、

 やはりアムピトリテの遺物でもある。

 すると同市の十日市・戸伏という地名も

 トリテ→トイチ→トーイチ→トフシと

 変化した遺物だとわかり、

 阿見と取手は660年代の倭国の大化東遷の遺物だと断定できる。

第2666回:鎌足の阿武(アム)山と大織冠(オオしょくかん)の真相

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 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:14頁

 ≪鎌足の阿武(アム)山と大織冠(オオしょくかん)の真相≫

 これで倭国東遷の証拠がさらに充実したが、

 それより私たちの本来の主題である

 建国史のヒロイン・卑弥呼の名の語源が、

 決定的にわかることのほうが重要である。

 それを整理してみよう。

 茨木市に残る安威・藍野・鮎川がいずれも「アイ」の発音をもち、

 卑弥呼の本来の発音「ぺマカ(パーリ語)」の意味である

 「愛」の中国語発音「アイ」に一致することで、

 彼女の伝統を継ぐ政権がそこにあったことが証明されているが、

 これにはさらに強力な証言が加わってくる。

 この茨木市には、

 藤原鎌足の冠位「大織冠(しょくかん)に相当する装束の、

 遺品とされる玉製品が出土した彼の基があることで有名な

 阿武(あぶ)山がある。

 この本来の発音は「アム」で、

 安威以上にアムピトリテの略名に一致していた。

 この「阿武」は、

 また萩市(山口県)を流れる阿武(あぶ)川と、

 その北東にある阿武町に代表される阿武郡が知られているが、

 それは名力士「阿武の松」を出したからである。

 この力士の醜名(しこな)はアブノマツではなく

 「オオノマツ」と発音するから阿武の古音が

 「オオ」だったことがわかる。

 すると百済倭国(フジワラ)(藤原)鎌足の墓が造られたから

 その山が「オオ=倭」山と呼ば阿武山と当て字されたのだとわかるし、

 さらに彼の冠位「大織冠」の大は「倭人(オオ)」で、

 織は「職=役職」、

 冠は「上(かみ)・守(かみ)」、

 倭人を管理する長官といった国名だったとわかる。

第2667回:馬国城(ウマラギ)の歴史と害虫名アブ・シラミの皮肉

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 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:15頁
 
 ≪馬国城(ウマラギ)の歴史と害虫名アブ・シラミの皮肉≫

 こうわかると、

 鎌足の墓が山上にある茨木は

 大化改新後の旧百済倭国人の本拠地だったことがわかるから、

 茨木という地名もその歴史が読み取れる。

 茨木は古音「ウマラキ」だから「馬国(ラ)王(キ)・馬国(ラ)城(ギ)」

 すなわち百済倭国王の城=都城(とじょう)=首都という意味への、

 後世の当て字で、

 茨城という当て字は、

 むしろ茨木より本来の都城の意味を残していて、

 平の将門式の中央政権への抵抗の跡が感じられる地名であり、

 倭国東遷が一層鮮明に立証されてくる。

 ここまでわかると取手市の西南隣りにある我孫子(アビコ)も、

 アブよりさらにアムビに近いから、

 本来は取手と一体になっていた遺跡だとみるべきだし、

 茨城県から北上する阿武隈(アブクマ)山地の名も阿武隈川の名も共に、

 また当然、このアムピトリテの子孫でなければならない。

 この「アブ」の名は、

 百済倭国が、国民にどう思われていたかまで記録している。

 アブは「虻(アブ)(古書アム)」で、戦前までは大量に発生して、

 うるさく人畜にたかって生き血を吸う嫌われ者だったし、

 新羅も蛭子も同じ生き血を吸う嫌れ者の名に使われている。

 「シラミ」は南九州語で「シラメ・シタメ=新羅女・下女」という。

 蛭は池や川にいる害虫である。

 「厄介者には手出しをするな」という意味のことわざ

 「虻・蜂とらず」は、抵抗は無駄だという諦めの譬(たと)えだが、

 蜂は八幡で、応神・仁徳系も決して好かれてはいなかったのだ。

第2668回:愛知、渥美、越もアムピトリテから生まれた

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 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:16頁
  
 ≪愛知、渥美、越もアムピトリテから生まれた≫

 この二つのイバラキの中間には

 滋賀県の愛知(えち)川、愛知県の「アイチ」があり、

 その愛知県には渥美(あつみ)湾と渥美半島があり、

 静岡県には安倍川がある。

 「アツミ」は「アンミ」の「ン」を助詞とみて「津」を使ったもの。

 「アイチ」は「藍ノ」のノを「津(チ)」に取り換えたもの。

 「エチ」は「アイ」を南九州語で「エ」と訛ったものだから、

 エチゼン・エチゴの「越」もまたアムピトリテの子孫なのである。

 この地域が日本海に依存する漁業と海運の海人国だったことは周知の事実で、

 隼人族圏だということは江戸時代から指摘されていたし、

 住民の姓も南九州人と共通のものが目立つ。

 こうみてくるとその越前に隣りするのは

 種子島という名をもつ丹波・丹後・但馬なのだから何の疑念も残らないし、

 また丹後には網野もある。

 ではこれらの地名を残したアムピトリテはどこで?、いつ?、

 そうした地名を生み始めたのであろうか?。

 卑弥呼がぺマカと呼ばれたのは、

 間違いなく天若日子ソナカと結婚してからだから、

 後漢の桓・霊の間(2世紀後半)以後である。

 それは彼女のもつもう一つの呼び名が「愛」で、

 それをパーリ語で呼んだのであるから、

 位置はまだ南九州本土に入る前、

 南海の島での歴史である。

 だからこそ、

 ぺマカは沖縄語化してピーミャーグァと訛ったのだ

第2669回:卑弥呼は奄美でアムビ、種子島でぺマカに変わる

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 出典:加治木義博・大学講義録31:17頁

 ≪卑弥呼は奄美でアムビ、種子島でぺマカに変わる≫

 卑弥呼の故郷・沖縄から大隅の海域に、

 アムピトリテの名をもった地名を探さねばならない。

 「アムビ」には「奄美」がピッタリした当て字だ。

 それはこれまで見てきたどの地名よりも完璧(ぺき)に近いほど、

 原音をよく写している。

 仮に語源が「アマミ」だったのなら、

 何もわざわざ無理に「奄」の字など使わなくても、

 その地域の代名詞・海人や蜑(あま)などを使うのが、

 古代の我が国では常識だったはずなのに、

 読むのに困る「奄(アン)」の字を

 頑固(かたくな)に使い続けているのは

 「この字はアンで。アマではない」と

 主張しているのだと察知する必要がある。

 幼い卑弥呼は、両親に天(アマ)という国に送られて、

 天照す(ゼウス)大神教=ギリシャ教の巫女になった。

 そのためポセイドンを崇拝する海人の国で、

 アムビと呼ばれた奄美地区の宗教指導者になり、

 アムビ(女神)と名乗っていたが、

 ソナカに結婚を迫られて、

 アムビが「アイー」に変わる地域

 (種子島語は、名前の複雑な子音を省略して力(チカラ)をチッカー、

  早苗(サナエ)をサンナーなどと、英語式に愛称化する)へ逃げた。

 そこで結婚するとソナカは「アイー」を中国語の「愛(あい)」と受けとり、

 自分の日常語・マガダ語(パーリ語)で「ぺマカ=愛」と呼んだ。

 それが連邦女王として君臨していた間に沖縄人が増えて

 「ピーミャーグァ」と沖縄語化し、

 それを耳にした帯方郡使・梯儁(ティシュン)が「卑弥呼」と当て字した、

 という変化の経路が詳しく読み取れる。

第2670回:「トリテ」を名乗る祟神皇子女とその名の真意

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 出典:加治木義博・大学講義録31:18頁

 ≪「トリテ」を名乗る祟神皇子女とその名の真意≫

 では、残るトリテはどうなったのであろうか?。

 これも当然、南九州語化していなければならない。

 薩摩語ならトイテ、大隅語ならトイチになる。

 この大隈語のトイチにはぴったりの候補者が、

 崇神天皇の皇子女の中にいる。

 十市瓊入(ニイリ)姫である。

 この十市はトイチそのものである。

 それだけではない。

 『魏書倭人章』の都市牛利(ニュウリ)も都市(トイチ)である。

 この二つの名を比べてみると、当て字の差で僅かに違うが、

 トイチニイリとトイチニュウリで、

 この差は「入」の字を、

 「イリ」と読むか「ニュウ」と読むかの違いでしかなく、

 もとは同じだとわかる。

 これで「トリテ」の名をもつ人物が、

 祟神天皇の系譜の中に確かにいたことは、

 『魏書倭人章』までもが記録していて疑問の余地はない。

 卑弥呼の名を生んだアンピトリテの神名が、

 祟神天皇の皇子女にも分け与えられていたのである。

 それは何を意味するのであろう?。

 現代も使う「安否(あんぴ)を問(と)う」という言葉がある。

 卑弥呼は本来はオリムポスの神託の巫女・ピュテーアだった。

 その託宣を仏教宣布の方便として使っていたから

 「鬼道で衆を惑(わく)す」と書かれている。
 
 国民が魅惑されるような託宣ができたのは、

 質問者が、

 国家や家族、産業などの未来や旅先での安否(あんぴ)などを

 「問いて(トイテ)」、

 それを卑弥呼らが「解いて(トイテ)」、

 答を「説いて(トイテ)」聞かせたからだとわかる。

 安否をアンピと発音するのも「アンピトイテ」の遺物なのである。

第2671回:「トイチ」実在の大きな意義と栃木大移動問題

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:19頁

 ≪「トイチ」実在の大きな意義と栃木大移動問題≫

 この都市(トイチ)牛利が豊城(トユチ)入彦で、

 豊鍬(トヅチ)入姫とは兄妹でなく夫妻だった。

 豊城も、豊鍬も、沖縄語化して読むと変形の理由がわかり、

 共に原音は「トイチ入り」という名乗りである。

 とすれば女性の十市瓊入姫と豊鍬入姫も当て字が違うだけで、

 同一人だった可能性が高い。

 ついでにおさらいをしておけば、

 同じ兄弟の八坂入彦は
 
 率善中郎将・掖邪拘(ヤザカウ=八坂王)、

 妹の淳名城(ぬなんじょう)入姫は

 同じく率善中郎将・難升米(なんじょうめ)のお后で、

 これも『魏書倭人章』に記録のある実在者の名である。

 明瞭に「応神天皇以前は神話」などではない。

 さらに以上から私たちが得た新情報は、

 都市牛利・豊城入彦・豊鍬入姫・十市瓊入姫は、

 すべて「トイチ」と発音するのが正しかったということである。

 だとすれば、

 これまで栃木県の名は豊城入彦・豊鍬入姫を

 「トチギ入り」と読んだものが

 語源であると考えてきたのは正しいが、小修正が必要になる。

 栃木という地名をつけた毛野氏らは、

 もう原音が「トイチ」だったことを知らなかった。

 これは大移動の時期が卑弥呼当時からは、

 はるかに後世だった証拠である。

 卑弥呼の政変直後から3世紀中に、

 豊城入彦らが栃木まで大移動した可能性は、

 これで完全になくなった。

 それはまた卑弥呼の倭国、

 壹與の邪馬壹国が畿内などになかったことを立証している。

 畿内なら栃木へ行けるが、

 南九州だったから行けなかったのである。


第2672回:孝安・孝霊両天皇の皇后は十市県主家の出身

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:20頁

 ≪孝安・孝霊両天皇の皇后は十市県主家の出身≫

 この十市の名は先ず『日本書紀』の孝安天皇の26年に、

 天皇の姪(めい)・押媛(オシヒメ)を皇后にした。とあり、

 その注に
 
 「一云、十市県主(あがたぬし)・五十坂(伊都・釋迦)彦の女(むすめ)・

  五十坂(伊都・釋迦)媛」

 と付記してあるから、

 十市という地名をもった県(地域)があったのである。

 この皇后が孝霊天皇の生母だとあるが、

 「孝霊天皇記」の始めに、

 「孝霊天皇の母を押媛(オシヒメ)という、

  蓋(けだ)し天足彦国押人命(孝安天皇の兄)の女(むすめ)・乎(か)」

 と書いてあるから、

 その通りだとすると十市県主五十坂彦とは、

 この孝安天皇の兄の別の名乗りだということになる。

 孝霊天皇は2年2月、細媛を皇后にしたが、その注にも、

 「一云、十市県主等の祖の女(むすめ)・真舌竣」と付記してある。

 天皇は代々、同じ十市県主家の娘を皇后に選んだというのだから、

 十市は重要な家系だったことがわかる。

 それだけでなく、現実には卑弥呼が女王だったのに、

 それには全く触れず、

 崇神天皇が元首だったように書いている『記・紀』の、

 記事の実態を考えると、

 この2人の皇后のほうが、

 実は卑弥呼のような女帝だった可能性が強い。

 では十市の県とはどこにあったのだろう?。

 屋久島の南にある口之島から奄美大島の北の宝島に至るトカラ諸島も

 十韓(トカラ)だった可能性があり、

 そのなかに十島(としま)村がある。

 奄美大島との位置関係からみて

「アムビ」につながる「トイチ」はこの諸島以外は考えられない。

第2673回:孝昭・孝安の皇居は屋久島と沖縄本島

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:21頁

 ≪孝昭・孝安の皇居は屋久島と沖縄本島≫

 これには、さらに有力な傍証がある。

 それは前記の十市の県主・天足彦国押人(孝安天皇の兄)と、

 弟の日本足彦押人(孝安天皇)とが生まれ育った皇居は

 「掖上」にあったと

 2人の父・孝昭天皇の元年の記事にある。

 『魏書倭人章』には

 「掖邪拘(ヤジャカウ)」という壹與の側についた率善中郎将がいて、

 八坂(ヤザカ)王であることはご存じの通りだが、

 その名乗りに該当する地名は

 「屋久(ヤク)・邪久(ジャク)・狗奴(クノ)」以外にないし、

 その島国の王の蔑称が「疫神(ヤクジン)=スサノオ」で、

 彼を祭っている神社の名が「八坂神社」。

 どこからみても掖邪拘は屋久島王である。

 すると十市に結びつく「掖上」は「ヤジャウ」への当て字で、

 それは「掖邪王(ヤジャウ)」すなわち屋久島王だから、

 そこに隣り合う十島が十市であり、

 十島(トシマ)とは「十市国(トシマ)」と読んだ後世の当て字である。

 東京都の豊島(としま)も

 アムピトリテ女神の名の子孫だったことがわかる。

 また孝安天皇の皇居は「秋津島の宮」である。

 アキツは沖縄語が語源の蜻蛉(トンボ)のこと。

 神武天皇が取った秀真(ホツマ)国を形容して、
 
 「蜻蛉が臀呫(となめ)する

  (大きいトンボの仲間は時々下半身を曲げて尻端を嘗(な)める)

  姿に似ている」と言ったことから

 「秋津洲(しま)という名が生まれた」と『日本書紀』が書くが、

 沖縄本島はいかにも

 尾を曲げたトンボを右横から見たような形をしているが、

 日本列島全体を精密に見ても、そんな島は他にはない。

 孝安の秋津島は沖縄本島だったことになる。

第2674回:神武天皇当時には地図があった我が国

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:22頁

 ≪神武天皇当時には地図があった我が国≫

 だが現実に沖縄本島へ行ってみると、

 大きくて、とてもそこがトンボに似ているなどと、

 わかるものではない。

 神武天皇がその国の形を見て秋津洲(しま)と呼んだのは、

 小島ではなかったことを物語っている。

 天皇は地図を見て、そういったのである。

 卑弥呼の鏡は光通信と日時計と土地測量用の器具として貴重品だったと、

 40年前から講義し、

 私(加治木義博)者『邪馬臺国の言葉』以下の著書に書き、

 テレビでも繰り返し説明してきたが、

 それは古墳や遺跡や記念物を

 メートルに一致する尺度で測量した直線上に配列したり、

 対馬と壱岐の間を1000里と測量しているように、

 早くから実用化していたし、

 正確な地図も作っていたのである。

 皇室の三種の神器も在来の説のような迷信による「象徴」ではない。

 すべて不可欠の文明の利器として役立っていたのであり、

 だからこそ神聖視されていたのであって、

 野蛮な段階の人が意味もなく恐れ奉る迷信の象徴やトーテム同様こ扱い、

 説明してきた在来の学説は、

 それこそ大した知性もない野蛮な段階の学者が、

 漫然とコジ付けただけのものに過ぎない。

 それは三種の神器の持ち主を故(ゆえ)もなく軽蔑させたばかりでなく、

 私たちの祖先に事実無根の濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せて、

 世界の人々に未開野蛮な異教徒のイメージを植え続けてきた。

 私が我が国の史実の解明に生涯をささげたのは、

 こうした悪と戦い、一掃するためにはかならない。

第2675回:「無い」ことも強力な証拠になる言語復原史学

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 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:23頁

 ≪「無い」ことも強力な証拠になる言語復原史学≫

 またその鏡を一方的な視点だけからみて、

 猥喪(わいせつ)な化粧道具としか見なかったのが、

 新羅の国名のもとになったシーラ・バッガ(戒律)派の教義だった。

 そのため韓国南東部を占めた半島新羅の遺跡からは鏡が出土しない。

 皆無ではないが

 それはシーラ・バッガ派以外の反対勢力の遺跡が

 少数混じっているからで、

 原則的には鏡を排斥していた史実を十二分に立証している。

 この国名と教義名の一致。

 鏡が遺物の中にない教義との一致。

 始祖王とする赫居世(女王・壹與)を同じく教義に合わせて

 男王に替えている『三国史記』新羅本紀。

 これだけでも新羅の国名と教義の関係は明かである。

 唯物史観に基づく発掘考古学は、存在するものだけに囚(とら)われて、

 「無いもの」は何の証拠力ももたないが、

 私たちの言語復原史学は、

 このように「無いもの」も強固な証拠になることを、

 よく比較してご認識戴きたい。

 沖縄語では「津」も「チ」と発音するから、

 十市(トオチ)に遠津(トオチ)と当て字できる。

 卑弥呼時代には、そこは魏使が「投馬」と書いているから、

 馬(マ)=国(マ)で、国として扱われていたことがわかる。

 その投馬まで伊都国から南へ「水行20日」、

 ぴったりトカラ列島までの所用日数に一致する。

 これらの十市・掖上・秋津島を在来の学者は

 全部、奈良県にあるとして済ましていた。

 もちろん、

 その十市の語源がギリシャ神話にあることなど、

 想像すらしなかったのである。

第2676回:孝霊一族全員『魏書倭人章』と『三国史記』に掲載

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》 

 出典:加治木義博・大学講義録31:24頁

 ≪孝霊一族全員『魏書倭人章』と『三国史記』に掲載≫

 これで『魏書倭人章』ではわからなかった

 卑弥呼政権の実体や内情、高句麗王家の内幕が見えた。

 卑弥呼がその王家の一員で、

 父の孝霊天皇が高句麗の支配者だったこと、

 伊声耆も位宮もその孝霊系譜中の人物らしいことなどが、

 さらに見えてきたからである。

 その名乗りを、

 各文献にある同一人らしい名乗りと比較して、割り振ってみよう。

   『日本書紀』       『古事記』     『三国史記』  『魏書倭人章』

 大日本根子彦太瓊(孝霊)大倭根子日子賦斗邇(フトニ)  新大王伯固 

 大日本根子彦国牽(孝元)大倭根子日子国玖琉(クル)   故国川王国襄 男弟

 倭迹迹日百襲姫     夜麻登登母々曽昆売      于氏王后   卑弥呼

 彦五十狭芹・吉備津彦  比古伊佐勢理(セリ)毘古 発岐・抜奇  泄謨觚柄渠觚

 倭迩迩稚屋(チオッ)姫  倭飛羽矢若屋比売       赫居世(イヨ) 壹與

 彦狭(サ)島       日子刺(サシ)肩別(寤(サメ)間)位宮     卑弥弓呼素

 稚武彦         若建日子吉備津日子      罽須(位宮) 狗右智卑狗


 『魏書』「東夷・高句麗」伯固(ハッコ)の2子 抜奇―馬交位居(赫居世?)

             伊夷模=男武=故国川王国襄―位宮
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